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大崎下島の歴史(大浜・久比・大長・沖友・御手洗)

大崎下島の歴史は古く、1460年頃に伊予国(現在の愛媛県)から安芸国(現在の広島県)に国替えとなった島です。今でも島の随所にその名残が見られます。

  • 島の西側の大浜・立花地区は、弥生時代の文化遺跡や古墳があり、確認された中では島内で最も歴史のある地域です。
  • 島の北側の久比地区は、大和から飛鳥時代にかけて、古代民族の久比岐が瀬戸内海から新潟県頚城地方に定着するまでに住み着いた地区で、古代から港があり、当時この島は「下の久比島」と呼ばれていました。地乗り航路では久比港は特定港(浦触)でした。
  • 島の北東側の大長地区は、平安時代にお清めの神々を祭る宇津神社が創建し、室町時代に大崎上島の中野荘園の役人だった高橋家が、小早川家の大崎下島統治のために赴任し、江戸時代に庄屋となり、以降明治の世に至るまで島の中心的役割を果たしました。
  • 島の南側の沖友地区は、安土桃山時代に豊臣秀吉の海賊禁止令で斎島から逃れてきた来島一族の隠れ谷から始まり、江戸時代には日向杉を運ぶ4軒の船主が誕生しました。
  • 島の東側の御手洗地区は、島内で最も新しく、江戸時代に大長港や船津湾に収容能力以上の大型船が停泊出来なくなり、物資調達の不便解消のため、御手洗湊を広島藩や庄屋が埋め立て港湾整備をした結果、御手洗港が完成し、この地区が誕生しました。

宇津神社(大崎下島・大長地区)

創建は773年です。(創建当時は七郎大明神)
それ以前に近くに祠があったとも言われております。
御神紋は愛媛県大三島にある大山祇神社と同じく「隅切折敷縮三文字」です。
御祭神は祓戸三神(八十禍津日神、神直日神、大直日神)です。
国内でも珍しい、禊ぎ祓い(身の汚れを払う)の三神を祭る由緒ある神社です。
身洗い(お清め)の御神威は、厄払いを受ける最高の神社として、安芸、備後、備中、摂津 (現在の広島県、岡山県、兵庫県)の信者(祓戸講)に信仰されており、最盛期には13万人を数えたと言われております。
1714年に現在の宇津神社の御神号を京都の吉田司家より賜りました。
厄払い、厄除け、お清めの御利益のある神社として、創建から1250年以上経った現在も多くの方々から信仰を集めており、参道、境内、拝殿内の隅々に浄化の気が宿る瀬戸内随一のパワースポットです。
大崎下島は、下の久比島→三津小島→身洗い島→御手洗島→大崎下島(現在)と、少なくとも5回の島名変遷がありました。
宇津神社の御神威である身洗い(お清め)が島名となり、更に転化し、御手洗島となり、町並み保存地区のある御手洗(みたらい)の地名の由来となりました。

主な神事

1月 初祭りお弓行事(通称・弓祭り)
1180年 伊予(現在の愛媛県)の守護・河野道信が戦勝祈願のため、百手矢を奉納したことが起源とされ、その言い伝えを元に百手矢を撃ち合う行事。
5月 御衣祭(おきぬがえ)神様の御衣を替える行事。
かつて祓戸講の信者が泊まり込みで参拝される程、厳かな儀式。

庄屋・高橋本家(大崎下島・大長地区)※非公開

大崎下島一の名家である高橋家は、300坪ある敷地を囲む石垣、門構えが見事な大長地区でひときわ大きな御屋敷です。
伊予国(現在の愛媛県)の豪族であった高橋家が大崎上島の役人を経て、1532年に大条・岡菜原地区(現・大長地区)に移住し、1593年に初代・大長村庄屋に就任しました。
以降、明治に至るまでの長きに渡り、代々この地の庄屋を務めます。
この御屋敷は、広島藩主・浅野氏代々が宿泊した本陣で、1806年、伊能忠敬測量隊が第5次測量で大崎下島付近を測量した際に、幕府や郡の役人と共に宿泊しました。 内部は非公開で、外観のみ見学可能です。


江戸時代の町並み(大崎下島・御手洗地区)

文化庁選定の町並み保存地区である御手洗(みたらい)は、江戸時代前期に諸国の参勤交代船の島への立ち寄りが始まり、島内に適した港が無く、港湾整備の必要性から藩や庄屋が埋め立て事業を行ない、1666年に誕生しました。
埋め立て開始以前は、海岸線の崖地に来島水軍(村上水軍一族)の関立(せきだて)跡があるだけで、人家は存在していませんでした。
御手洗地区は大崎下島の中では最も新しい地域で、その歴史は360年程です。
誕生当時は、大長村(現・大長地区)に属しており、各藩船の物資補給に対応する商業地として、大長村から庄屋の分家が御手洗地区に出店します。
その後、様々な交易船の補給基地として、水、食料、燃料、船具、日用品などの販売や、船の修繕、港に立ち寄る各藩の通信基地(伝書の役割)などで賑わいます。
当時は尾道と関係が深く、尾道の一大豪商である西灰屋橋本家(現・広島銀行の前身)との取引が縁で、今では御手洗地区一番の景勝地である住吉神社が寄進されました。
町から見える瀬戸内海の穏やかな美しさに惹かれ、江戸時代中期には著名な俳人、詩人が訪れ、居住し、数々の名句、名詩を残しております。
幕末には、維新の志士である土佐の中岡慎太郎がこの地を幾度も訪れている記録が残っており、要人の密談・密会、薩摩藩と広島藩の密交易の地としての役割がありました。
かつての町並みはその役割を終え、潮風香るレトロタウンとして、その静かな佇まいを感じることが出来ます。
また近年は国内外の映画、ドラマ、アニメ、CMのロケ地、舞台として、数々の作品に登場しております。

※御手洗(みたらい)の地名の由来は、宇津神社を参照してください。


来島水軍の関立跡(大崎下島・御手洗地区 現・南潮山 満舟寺)

この石垣は、戦国時代の来島水軍 (村上水軍一族)斎島駐屯所の見張所「関立」 (せきだて)跡です。水先案内の関料(通行料)を徴収していた記録が残っております。
管理者は来島通親です。関立当時は現在のような石垣はありませんでした。
伊予国(現在の愛媛県)守護職・河野氏が築いた関立は、この他に愛媛県の弓削島と岩城島にもありましたが、全て破壊され、跡地もわからず、現存しているのは御手洗のみとなり、村上水軍の大変貴重な史跡です。
大崎下島は戦国時代中期まで伊予国に属しており、その後、安芸国(現・広島県)に国替えとなった珍しい歴史のある島です。
そのため、広島藩主・福島正則が伊予国との国境の守りを強固にする砦のつもりで、崖地を石垣に築きました。
その後、1751年に僧・高然が無住となった納所村(現・三原市沼田)の松桂庵を、十一面観世音菩薩(仏師不明)安置のために、庄屋・新屋高橋家の許可を得て、この場所に南潮山満舟寺として再建しました。
この十一面観世音菩薩は、33年に一度御開帳される秘仏で、当時より交易船の航海安全祈願のため、御手洗港の方角である東向きに安置されており、令和の世になった今でも御手洗水道を行き交う様々な船の航行を見守っております。
尚、この場所に満舟寺再建を許可した御手洗の初代町年寄である新屋高橋吉左衛門親子の墓石が、20年程前まで御堂の正面に2基並んで建っていましたが、所在不明となっております。この町の歴史を物語る「当山地主」と刻まれた由緒ある墓石です。(現在捜索中)


住吉神社と常夜燈及びその周辺

大崎下島を代表する景勝地で、国内外から人気のフォトスポットです。
御手洗との取引が縁で、尾道の一大豪商である西灰家橋本家の番頭季寛(すえひろ・後の郡奉行筒井季寛)が大阪の豪商である鴻池に神社の寄進を頼み、住吉大社の10分の1規模の住吉神社を建立しました。
参道前の常夜燈は、庄屋・金子忠左衛門の寄進で、台風19号により火袋が破損し新調されましたが、その他は元の石を海中から引き上げ、積み上げたものです。 「太平夜景」と刻まれた常夜燈は、江戸時代から変わらぬ穏やかな瀬戸の夜景を照らしています。
現在の石橋は創建当時木造で、大正時代に石橋に造り変えた当時、沖友地区の藤本屋寄進の表門が裏門に移動されています。


パノラマ展望台

歴史の見える丘公園と名付けられた瀬戸内海の穏やかな景色が一望できるパノラマ展望台。
快晴の日には海の向こうに四国連山を臨むことが出来ます。
住吉神社から車で5分。徒歩20分。

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